Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

【3】

町屋3




「生存とテクノロジーを巡る覚書10」[2005. 5.11-5.12記述分]
次に想定するのは、比較的一貫した批判的文脈を形成している記述である。ある個人が、テーマ文1に対して、「現在生きている遺伝子疾患を持った人に対し、差別的な扱いが増すのではないか。遺伝子疾患以外の先天性疾患に対し、差別的な扱いが増すのではないか」という記述を行ったと想定する。
まず、第一文「現在生きている遺伝子疾患を持った人に対し、差別的な扱いが増すのではないか」は、一貫した理念を背景とした批判的懐疑と捉えることができる。
ここで「一貫した理念」とは、既述の「属性を序列化する価値観」に対する一貫した批判がそれによって可能になる理念である。ただし、ここでは仮想された理念それ自体を抽出する作業はしない。
ところで、「属性の序列化」は、「属性の序列化に応じた、そのような属性を持った人の生存の序列化」をも意味する。言い換えれば、属性を序列化する価値観は、生存それ自体を序列化する価値観でもある。
ここでの事例に即して述べれば、「何らかの遺伝子疾患」という属性を持った人の生存が、そうした属性を持たない人の生存に比べて「より価値が低いもの」として序列化される。
テーマ文1に即して述べれば、「本来は遺伝子改造によってそうした属性が消去され得た者」として認知される。
さらに、「これからは生まれてくる自分の子どもに深刻な問題が見つかった場合、産みたいこどもだけを産むことができる」というテーマ文3に即して述べれば、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た者」として価値付けられる。
その結果、そうした者に対する「差別的な扱いが増すのではないか」という冒頭の危惧が生まれることになる。なお、上記は因果的な過程の記述ではなく、無意識的に生成すると考えられる過程を、便宜上段階的に記述したものである。
ここで、先にも触れた「個々人の選択に際して、技術的な力によってコントロールされた出生の「必要性」が社会的強制力として作用する」という論点が再び浮上する。
何らかの遺伝子疾患」という属性を持った人の生存は、社会的に「より価値が低いもの」であり、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という社会的強制力が生じる可能性がある。
その場合、「差別的な扱いが増す」という事態は、こうした(おそらくは暗黙で無意識的な)強制力の効果であるだろう。
次に、第二文「遺伝子疾患以外の先天性疾患に対し、差別的な扱いが増すのではないか」は、第一文と一貫した文脈において、第一文と同様に批判的な危惧を表現する記述として捉えることができる。
確かに、ここでの「遺伝子疾患以外の先天性(出生以前の何らかの要因に由来する)疾患」という表現の具体的内容を特定することは難しい。例えば、一般に遺伝子レベルでの改造・治療・予防・発生の予測等が不可能な事例を想定したものだとしよう。その場合でも、第一文と同様の批判的理念に基づいた危惧として捉えることが可能である。
遺伝子レベルでの改造・治療・予防・発生の予測等が不可能な事例であったとしても、それが現実に可能な事例がすでに存在している(と想定され得る)なら、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た者」という序列化は可能である。
従って、あらゆる先天性疾患に関して、上記第一文と第二文を通じて一貫した文脈の生成を想定することができる。
次に、先に想定した個人が、テーマ文2及び3に対して、「子供は「作る」ものではなく「授かる」ものだと思う。遺伝子操作により好みの子供を「作った」としても、その子がそのまま「親の思い通りの作り物」になるわけではない。
子供を「作る」という意識は子供が親の所有物であるような意識につながりやすい。子供自身の人権は守られるか」という記述を行ったと想定する。
この記述の含意に関しては、属性及び生存を序列化する価値観に対する批判的理念を明晰に意識化したものとして、とくに分析困難なところはない。
言うまでもないが、ここで注目すべきは、上記の記述が、テーマ文2と3に共通するものとして為されていることである。私たちは、テーマ文1に応答した先の記述全体に対して、一貫した文脈の生成を想定することができた。
その一貫性は、テーマ文2と3に応答した記述とともに、属性及び生存を序列化する価値観に対する批判的理念を共有していると考えられる。従って、テーマ文2と3の両者に一貫して応答する文脈が、これまでの全ての記述の生成過程において同時に生成していることになる。
私たちは、先に「仮想された理念それ自体を抽出する作業はしない」と述べた。その理由は、「仮想された理念それ自体」というレベルが、その都度の記述を織り成す文脈の生成という過程に先立ってどこかに存在しているわけではないからである。
複数の記述が批判的理念を共有するという事態は、より根源的には、そこにおいて複数の記述を織り成す一貫した文脈が生成される、その都度の偶発的な創発過程なのである。

「生存とテクノロジーを巡る覚書11」[2005. 5.13-5.14,5.16記述分]
次に、ある個人が、テーマ文1に対して「そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか。いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする。親の好みで遺伝子が変えられるとひずみができてくるのではないだろうか」という記述を行ったと想定する。
まず、この記述の第一文「そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか」には、「優秀(な人間)か否か」という価値付けが含まれている。一見して当然のように思えるが、まずこのことを確認しておきたい。
その基準、あるいは「そうすると」の内容は、テーマ文1を受けているので、「成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができる(のであれば)」である。
従って、ここでの文脈は、「遺伝子への技術的介入により難病等の属性が除去された状態=優秀」と「除去されていない状態=優秀ではない」という二項対立として生成している。すなわち、ここでも属性(同時に生存そのもの)の序列化という文脈が生成している。
このような分析結果が引き出されるということは、残酷なことに思えるかもしれない。だが、私たちはこうした事態を直視する必要がある。
ただし、既述のように、こうした文脈が生成しているという事態は、あくまで分析の結果見出されたものであり、この個人が属性(同時に生存そのもの)の序列化という文脈を意識化しているという(ここでは仮想されているに過ぎない)事態とは独立している。
より明確に言うなら、この個人は、上記の文脈(の生成)を意識化してはいない。一般に、このような記述を行う個人は、必ずしも属性(同時に生存そのもの)の序列化という文脈を意識化した上で肯定しているわけではない。そうした意識化は、(これもここでは仮想されているに過ぎない)メタレベルの認識である。
言い換えれば、こうした文脈(の生成)は、ほとんどの場合、無意識的なものにとどまる。それは、ある個人が、「そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか」といった自らの記述や発話を十分意識して行ったとしてもそうなのである。
さらに一般化して言うならば、このことは上述の属性(同時に生存そのもの)の序列化という文脈に限らず、どのような文脈(の生成)についても妥当すると考えられる。
次に、「優秀な人間ばかりになるのだろうか」という記述部分には、既述の「何らかの遺伝子疾患という属性を持った人の生存は、より価値が低いものであり、本来はその出生(生存)自体が予防され得たとする社会的強制力」がすでに偏在してしまった世界がイメージされている。
つまり、そうした強制力が、無意識のレベルで偏在的なものとなった世界が、「優秀な人間ばかりになる世の中」としてイメージされている。言い換えれば、「遺伝子改造による難病等の属性が除去された状態=優秀」と「除去されていない状態=劣等」という二項対立が常に既に前提され、こうした属性の除去あるいは出生(生存)そのものの予防という思想と実践が偏在する社会である。
ここで注意すべきことは、この場合の「イメージされている」という事態も、無意識的なものだということである。「社会的強制力が、無意識のレベルで偏在的なものとなった世界のイメージとは、それ自体無意識的なものである。
その意味で、意識化されることなく<我々自身の無意識>を構成するこのイメージは、「何らかの遺伝子疾患という属性を持った人の生存は、より価値が低いものであり、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という<言表>の際限の無い反復がもたらす記憶痕跡のレベルにある。
次に、「いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする。親の好みで遺伝子が変えられるとひずみができてくるのではないだろうか」は、最も単純に「分類」するなら、「先に見た事例ほど自らの葛藤に自覚的ではなく、葛藤レベルも低いアンビバレントなタイプ」と判断できるだろう。
確かに、「親の好みで遺伝子が変えられるとひずみができてくるのではないだろうか」は、先の事例に通じる懐疑と捉えることもできる。この事例よりも文脈が意識化された先の事例では、「子供は「作る」ものではなく「授かる」ものだと思う。遺伝子操作により好みの子供を「作った」としても、その子がそのまま「親の思い通りの作り物」になるわけではない。子供を「作る」という意識は子供が親の所有物であるような意識につながりやすい。子供自身の人権は守られるか」という記述であった。
だが、この記述には、「いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする」との文脈の一貫性が欠けている。一見すると、これらの記述(第一文と第二文)の間のみならず、「いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする」という記述自身も何らかの「葛藤」を表現しているかに見える。
だが、この記述は、実は「葛藤」を表現しているのではなく、それよりもはるかに根源的な、偏在する<我々自身の無意識>を、すなわち、社会的強制力が無意識のレベルで偏在的なものとなった世界を暗黙のレベルで指示している。
とりわけ「なんだかつまらない気もする」という表現は、この偏在性がもたらす(今風に言えば)「ダルさ」を暗黙のレベルで指示していると言えるだろう。もしその「ダルさ」が顕在化するなら(実際には暗黙のレベルに留まる)、「もはや、あるいは常に既に、すべては超微細なレベルで決定されている」といった<言表>の際限の無い反復で表現されるような。
この<我々自身の無意識>は、意識化(対象化)されることなく、あくまでも無意識に留まっている。それ自体無意識的なこの世界のイメージは、いささかも揺らいではいないのである。

「生存とテクノロジーを巡る覚書12」[2005.5.17-18.記述分]
 次に、テーマ文2に対して、先の個人が「それができるとなると自分のよいところを更にのばした子どもを望むだろうか。それとも、まるで反対のあこがれの人物像にするだろうか。いずれにせよあまり自分と似ていない親子ということになる。うまくいかない時は自分に似たんだからしようがないという諦め方はできなくなる」という記述を行ったと想定する。
この記述において着目すべきことは、「それができるとなると」という記述に凝縮されている。この記述も、先に述べた「社会的強制力が無意識のレベルで偏在的なものとなった世界」を指示していると言える。
一見して明らかなように、1の「そうすると」と、ここでの「それができるとなると」という書き出しのスタイルは極似しており、このスタイルそのものが本事例の特徴である。
この特徴から、この記述は遺伝子レベルへの技術的介入に対する肯定的な要素がかなり強いと言える。ここには、この技術的介入における「失敗」という事態が、その社会的効果にとどまらない致命的な事態をもたらす可能性についての危惧はない。既述の、改変された遺伝情報が世代を通じて子孫に継承されていくことがもたらす予測不可能な効果という問題である。
それどころか、「自分に似たんだからしようがないという諦め方はできなくなる」という記述からは、子孫や生態系は別としても、そのようにして「生産された」子どもが負うリスクについての眼差しも感じられない。
「うまくいかない時」の「諦め」が、もっぱら自分自身のこととして語られてしまっている。これは一体なぜなのか。この問いは、実は予想以上に困難な問いである。
精神分析のアプローチを採用するなら、この個人のどちらかというと否定的な自己イメージのあり方や由来に関してさらに精緻な分析が可能かもしれない。だが、これだけの記述から、これ以上の分析を行うことは困難である。その分析は、かなりの程度仮説的なものにとどまるだろう。
また、テーマ文1に対する先の記述と同様に、論理的一貫性の希薄さも本事例の特徴である。遺伝子への介入あるいは生命の選別に対して肯定的・否定的な主張のいずれと仮定しても、その意味内容の一貫性を読み取ることは困難である。また、整合的に読み取り可能な批判的理念もここには存在しない。
だが、ここで重要なことは、批判的理念に基づいた論理的一貫性が稀薄であるという事態と、<我々自身の無意識>が意識化(対象化)されない状態にとどまるという事態とが、不可分な関係にあるということである。言い換えれば、「それができるとなると」以下の記述から一貫した意味内容を読み取ることが困難であるということは重要ではない。むしろ、意味内容の読み取りの困難さこそが、根底に存在する<我々自身の無意識>の存在と整合的なのである。
すなわち、この個人によるこれまでの記述のベースに、「すべては超微細なレベルで決定されている」といった<言表>の際限の無い反復で表現される世界が暗黙の内にイメージされている。この事態にこそ、根源的な一貫性がある。
おそらく、個々人が<我々自身の無意識>を意識化(対象化)しそれに直面するという事態の発生は、現在のところ仮想されているに過ぎない何らかのメカニズムによって、あらかじめ<排除>されている。このことは、自己イメージの由来についてのこれ以上の精緻な分析が困難であることとも関わる。
次に、先の個人が、テーマ文3に対して、「現実的な話でも重い人生を自分や人に負わせることはできないが---。本当はどんな子が生まれても家族や社会で守ることができるのがよいと思う」という記述を行ったと想定する。
まず、「現実的な話でも」は、テーマ文3冒頭の「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」という記述を受けていると推測できる。テーマ文1,2に対する記述において、私たちは暗黙のレベルにとどまる<我々自身の無意識>の偏在性を指摘した。想定した個人の記述において、この<我々自身の無意識>が偏在する世界イメージは無時間的なものであった。
だが、「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」というテーマ文3冒頭の記述が、この無時間性に時間性を導入することになる。無意識とは無時間性のもとに滞留することであり、従って、この無時間性から時間性への移行が、<我々自身の無意識>の意識化(対象化)過程の端緒を形成すると考えられる。
ここで導入された時間性は、<我々自身の無意識>のまどろみに亀裂を穿ち得るだろうか。「現実的な話でも重い人生を自分や人に負わせることはできないが---」では、「重い人生を自分や人に負わせることはできない」ということ、すなわち自分の場合にも人の場合にも(従ってほとんど全ての場合において)避けがたい事態として、生命の選別(「不要」になった受精卵の廃棄等)が想定されている。
ここでは生命の選別が避けがたい(「できない」)事態として意識化(対象化)されている。そのため、「できないが---。本当はどんな子が生まれても家族や社会で守ることができるのがよいと思う」という記述がなされている。この記述を、批判的に一貫した文脈が生成する萌芽状態として捉えることもできる。個人とテーマ文との応答過程の展開とともに、これまで無意識的であった層が浮上してきたのかもしれない。
だが、導入された時間性が、<排除>のメカニズムを超えて、<我々自身の無意識>のまどろみに亀裂を穿ち得たのか。この問いに対する決定的な応答はまだ存在していない。

「生存とテクノロジーを巡る覚書13」[2005.5.18-21記述分]
次に、「生存とテクノロジーを巡る覚書10」で分析した事例と同様に、比較的一貫した文脈を形成している記述を想定する。ある個人が、テーマ文1に対して、「難病にならないようにしたいという気持ちは理解できるが、遺伝子を変えることには抵抗を感じる。遺伝子操作によって自然の摂理やバランスを崩すという可能性も考えられるからである」という記述を行ったと想定する。この記述は、先にも触れた「改変された遺伝情報が世代を通じて子孫に継承されていくことがもたらす、ヒトを含む生態系に対する予測不可能な効果」という問題を意識化し得ている。
論点は、「予測不可能な効果」である。予測不可能であるがゆえに、「自然の摂理やバランスを崩す」ことの具体的な内実について考えることはできない。おそらくここでは、個別的内容を度外視した上での「バランスを崩す」ことの基準についても考えられてはいない。しかし、この記述においては、先の事例においてテーマ文2に対する応答文までは無意識にとどまっていたレベルが意識化されている。本事例は、日常的な意識と言語のフレームにおいては、あるいは日常的な意識と言語のフレーム内にあるからこそ、明確な形で一貫した文脈を表現している。
さらにこの個人が、テーマ文2に対して「健康であることは大切なことだと思うが、背が高いなどということが、生まれてくる子にとって幸せになる条件の一つであるかどうか、疑問である。カップルの希望に応じた子どもを作るという行為は、子どもを所有物化しかねないし、生まれてくる子どもに対して人間の尊厳を敬うことに反していると思う」という記述を行ったと想定する。
「健康であることは~疑問である」という冒頭の記述は、次のように分析され得る。まず、「健康であること」が「幸せになる条件の一つ」として肯定され、それとの対立関係において、「背が高いなどということ」を「幸せになる条件」とすることが批判の対象となっているわけではない。言い換えれば、「背が高いなどということ」といった個別的な属性の序列化を肯定する遺伝子の改変が否定され、それとの対立関係において「健康であること」を希求し欲望する遺伝子の改変が許容されているわけでなない。むしろ、この個人は、「健康であること」への希求や欲望は遺伝子レベルの改変を正当化しないというテーマに気づいていると考えられる。
「健康であること」を希求し欲望する遺伝子の改変は、既述のように、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。言い換えれば、「健康であること」を目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定なのである。先の記述を行った個人は、まだこうした認識まで到達し得ていないのかもしれない。だが、少なくても先の記述においては、個々の属性が焦点であろうと、健康であることが焦点であろうと、一貫した文脈において懐疑されていることは確かである。
次に、第二文「カップルの希望に応じた~反していると思う」だが、ここで想起されるのは、先に「生存とテクノロジーを巡る覚書2」で分析したテーマ文2に対する応答文である。そこでは、「子どもは、親またはカップルの希望に応じて存在するものではない」という主張が見られた。また、私たちは、この主張を、「子どもは、親またはカップルの希望に応じてこの世界へと存在させられるものではない」、あるいは、「子どもは、親またはカップルの希望に応じた生存の様式を持つように予定されてこの世界へと存在させられてはならない」と言い換えて文脈を抽出した。ここでも、同様の一貫した文脈の生成が見られると言ってよい。
以上の文脈の想定のもとで、さらに次の記述を分析してみたい。すなわち、先の個人が、テーマ文3に対して、「医学は病気を治療することによって進歩してきたし、障害があることを全てマイナスに捉えてはいけないと思う。思いやりも障害によって養われることもある。遺伝子操作を全部否定するわけではないが安易に考えてはいけないと思う」という記述を行ったと想定する。まず、「医学は病気を治療することによって進歩してきたし」という記述と後続する「障害があることを~考えてはいけないと思う」の文脈関係をどのように考えればよいのか。テーマ文3は、「治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ない」という記述で終わっていた。ここでは、医学が本来「治療することによって進歩してきた」にもかかわらず、遺伝子検査・診断に従う受精卵の選別・廃棄という行為は、治療あるいは進歩の安易な放棄であるという認識がなされているように見える。
だとすると、ここでは遺伝子治療すら可能ではない(「治療方法のない」)ために受精卵の廃棄が選択されたという事態がそもそも理解されてはいなかった、または忘却されていたのか。だが、ここで「理解していたのかどうか、または忘却されていたのかどうか」という二者択一をする意味はない。むしろ、ここでより根底的な選択として浮上するのは、たとえ治療不可能な場合であっても、「受精卵の選別・廃棄を選ぶのか、それともそれを拒否するのか」である。「遺伝子操作を全部否定するわけではない」という記述に見られるように、この個人は他者の選択を尊重している。だが、この個人によっては「受精卵の選別・廃棄を拒否する」という後者が選択されていると考えられる。
「障害があることを全てマイナスに捉えてはいけないと思う。思いやりも障害によって養われることもある」には、先に分析した事例の「世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人もいる」と類似した論理が見られる。ここまでの分析の結果、私たちは、先の「覚書10」の事例以上に、本事例は一貫した文脈の生成が明確に見られると考える。

「生存とテクノロジーを巡る覚書14」[2005.5.23-24.記述分]
次に、ある個人が、テーマ文1に対して、「どんなことでも最初の人は勇気が要るし、危険も伴う。病気がなくなるのはいいことだし、こういった過渡期を越えれば、犠牲もなく、病気もなくなるといった世界がくるのなら、それもあり得る」という記述を行ったと想定する。この記述は、一見して不思議なほどに遺伝子の改変に対して肯定的である。というよりむしろ、この記述は、単に遺伝子の改変への肯定的構えではなく、人間の生活世界全般の技術的改変に対する肯定的構えを表現しているとも言える。それほどまでに、ここには何らかの制約条件に対する視点が欠如している。
もちろん、ここで私たちは、既述の「社会的強制力が、無意識のレベルで偏在的なものとなった世界」のイメージや、「すべては超微細なレベルで決定されている」という<言表>の際限の無い反復で表現される世界イメージを想起できる。このイメージの領域は、現在までのところ、あらゆる記述に対して最も根底的なフレームとして仮定されている。
上記の<言表>が浸透する領域が、遺伝子の改変という技術領域に限定される必然性はない。この意味で、先の記述はこうした<言表>の効果として、むしろ典型的な事例である。荒唐無稽にも見えるが、先の記述が肯定しているのは、人類史の過去・現在・未来の全体が経験するあらゆる技術的介入の「世界改変効果」に及ぶと思われるからである。ここでは、ある種の「世界イメージ」が焦点となる。とはいえ、今後私たちの生活世界において偏在的なものとなる超微細な生体工学の領域こそが、こういった<言表>にとって親和的な領域であろう。いずれにしても、既述の<我々自身の無意識>の作動が、この記述においても想定できる。
さて、「どんなこと(anything)でも」という冒頭の言葉には、「何でも構わない(anything goes)」といった構えすら見て取れる。ここでは、「どんな(any)」リスクが発生したとしても、それらは全て「過渡期」の現象であると見なされ得る。すなわち、そういった「過渡期を越えれば」、ほとんど全ての問題は解消すると想定されているように見える。だが、もちろん、ここでは問題が解消すると断言されているわけではない。あくまでも、そういったリスクや問題が全て解消された「世界がくるのなら、それもあり得る」という仮想世界が述べられているに過ぎない。この仮想世界は、あらゆる問題が「過渡期」を越えて解消へと向かう直線的な時間観念を内包しているように見える。だが、より根底的なレベルには、あらゆる「過渡期」の生成と消滅が恒常的に反復される世界のイメージがある。それはむしろ、無時間的な世界であろう。私たちは、ここでも、あらゆる時間の関節が外れたかのような、「なんだかつまらない」世界(「といった世界」)の可能性(「それもあり得る」)を見出すことができる。
ところで、先の記述で述べられていたのは、もし「犠牲もなく、病気もなくなるといった世界がくるのなら」、そのような世界を到来させる技術的介入が「許容される(あり得る)」ということ、つまり「そうした世界もアリ」ということである。言い換えれば、「自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変える」ことは、少なくてもこの段階では何の懐疑にも晒されてはいない。
だが、もしそうなら、以上の記述と次に見るテーマ文2に対する記述との関係が新たな問題を提起することになる。先の個人が、テーマ文2に対して、「かなり極論だと思う。自分の子どもは、例えば男児なら妻が夫の子供時代を理解する手がかりになり、女児なら夫は妻をもっと分かるようになり、お互いをいとおしく思い合えるようになる。そして夫婦として完成していくといった幸福感、家庭という固い絆が築かれ、それが広がって地域へ国へ世界へとつながるのではないか。カップルが工作するのでは決してないと思う」という記述を行なったと想定する。唐突にこうした記述に出会うと、これまでの記述を包括する文脈の分析が、一挙に困難になったと思えないだろうか。テーマ文1と2に対するこの応答記述の違いを、一体どのように考えればよいのか。どちらのテーマ文も、「自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えることができるようになる」という点に関して違いはなかったはずである。にもかかわらず、先の記述では「それもあり得る」とされ、ここでは「かなり極論だと思う」とされている。これら二つの応答記述の間には、実は見かけほどの違いはないのか。これら記述を包括する文脈の一貫性を想定することは果たして可能なのか。
ここで、既述の「健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。健康であることを目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定である」という論点が想起される。これは仮説だが、一般に、テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は「健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応し、テーマ文2は、「個別的な属性の序列化(同時に生存そのものの序列化)」に対応するとものとして受け取られるだろう。従って、言うまでもないが、先の個人による記述は、「健康であることを目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定である」という認識へと向かうものではなかった。それでは、これらの記述が位置する文脈の生成過程とは、一体どのようなものなのか。

「生存とテクノロジーを巡る覚書15」[2005.5.28-29.記述分]
先の個人のテーマ文2に対する記述は、「かなり極論だと思う」で始まっていた。この記述と、テーマ文1に対する「それもあり得る」という記述との整合性が問題とされた。すなわち、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてしまう」という点においては本質的に同一の事態に応答する二つの記述の整合性への問いである。ここで先の仮説を活用するなら、テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は「健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応し、テーマ文2は「個別的な属性の序列化(同時に生存そのものの序列化)」に対応するものとして受け取られるために、二つの記述が一見不整合なものとして分岐するということになる。
言い換えれば、先の個人が記述しているのは、背を高くしたりするための介入(テーマ文2に対して)は「かなり極端だと思う」が、健康を願う故の介入(テーマ文1に対して)なら「それもあり得る」ということである。この二つの記述の分岐は、応答する個人の主観的な意識の分岐に対応している。逆に言えば、この個人にとっての無意識の文脈の生成過程を反映するものではない。この事例に限らないが、文脈の生成過程は、より根底的なレベルで掘り起こされなければならない。
まず、上記の一般的仮説は、次のように修正される。すなわち、括弧内の表現である「同時に生存そのものの序列化」は削除されなければならない。例えば、もはや言うまでもないであろうが、先の個人にとって、「健康であることを目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定である」という認識は存在していない。すなわち、この「同時に生存そのものの序列化」という括弧内の記述は、応答する個人の意識の外部にある。従って、この個人にとって、「個別的な属性の序列化」という価値観に基づいた「属性に関わる遺伝子改変」に対する懐疑はあっても、それが「同時に生存そのものの序列化をも意味する」という認識はない。
このことは、先の個人に限らないだろう。従って、記述の分岐を説明する先の一般的仮説は、次のように書き換えることができる。
1. テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は、「健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応するものとして肯定的に意識される傾向がある。
2. テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文2は、健康であることへの希求や欲望とは異なる「個別的な属性を序列化する欲望に基づく遺伝子の改変」に対応するものとして否定的に意識される傾向がある。
3. 以上二つの応答意識の違いが個人において存在する場合、それぞれのテーマ文に対する二つの記述が、それぞれ肯定的・否定的という形で一見不整合なものとして分岐する傾向がある。
この個人による「かなり極論だと思う」という記述に遭遇した段階においては、テーマ文1に対する記述とテーマ文2に対する記述の両者を包括する文脈の一貫性を想定することは困難であった。だが、上記の仮説によって、主観的な意識を超えた根底的なレベルにおいて、一貫した文脈の生成を想定することができる。その場合、「かなり極論だと思う」に引き続く記述は、新たな光を当てられるのではないか。以下に、再びその記述を引用する。
「自分の子どもは、例えば男児なら妻が夫の子供時代を理解する手がかりになり、女児なら夫は妻をもっと分かるようになり、お互いをいとおしく思い合えるようになる。そして夫婦として完成していくといった幸福感、家庭という固い絆が築かれ、それが広がって地域へ国へ世界へとつながるのではないか。カップルが工作するのでは決してないと思う」
まず、「カップルが工作するのでは決してないと思う」という結論部分は、先に分析した事例における「子供は「作る」ものではなく「授かる」ものだ」という論理と表層的には類似している。だが、「この記述でいったい何が言われているのか」ということが問題なのではない。むしろここで注目されるのは、この記述の「制約条件を欠いた流れるようなスタイル」である。それは、形式としては「~になり~になり~になる」といったスタイルであり、また「それが広がって地域へ国へ世界へとつながる」といった記述に見られる<自ずから成る事象の流れ>とでもいえる表現である。私たちは、ここにおいても、先の分析における「あらゆる過渡期の生成と消滅が恒常的に反復される(中略)無時間的な世界」を見て取ることができる。
一見ここでは、技術的介入がないからこそ、こうした<自ずから成る事象の流れ>があり得ると述べられているように見える。だが、実はこの記述は、「人類史の過去・現在・未来の全体が経験するあらゆる技術的介入の世界改変効果の肯定」という先の分析結果と同じコインの裏表の関係にある。無意識のレベルにおいては、テーマ文1に対する応答記述とテーマ文2に対する応答記述の間には、一貫した文脈が生成している。あらゆる技術的介入は、あくまでも一つのエピソードとしての「過渡期」に過ぎない。言わば、「素晴らしい新世界」という結論があらかじめ先取りされた世界であり、その先取りにおいて「何でも構わない(anything goes)」といった構えが維持されている。やはりここでも、「すべては超微細なレベルで決定されている」。
この「新世界」は、決して直線的な時間の末端としての「終わり=目的」ではない。それはむしろ、無時間的な無常と恒常の共存において、自分の子ども、妻、夫、夫婦、家庭(という固い絆)、地域、国、世界が自ずから一つに「つながる」世界(あるいは常にすでに一つにつながっている世界)であり、それ故、「カップルが工作するのでは決してない」世界である。それは、この個人にとってごく自然な「日常的世界」なのである。
 上記の文脈の一貫性が、意外にも、次のテーマ文3に対する応答記述においてあらわになる。とはいえ、それは記述とも言えない記述であり、ただ「…と思う」のみである。私たちは、この記述の断片、というよりむしろ「記述の空白」をどのように読めばよいのか。 
テーマ文3は、「不要」になった受精卵の選別・廃棄といったケースが、「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」という冒頭の記述によって提示されていた。先に、私たちは、この冒頭の記述が、「無時間性に時間性を導入することになる」と仮定し、さらに「無意識とは無時間性のもとへの滞留であり、この無時間性から時間性への移行が<我々自身の無意識>の意識化(対象化)過程の端緒となる」と述べた。だが、こうした見方は、「…と思う」という「記述の空白」には通用しないのか。
この記述は、単純に解釈すれば、「回答あるいは判断不能のケースであり、先の個人の主観的意識にとって、テーマ文1,2,3相互の(同時にそれぞれに対する応答記述相互の)整合性あるいは矛盾の吟味ができないための思考停止状態であると推測できる。つまり、これらの整合性の吟味は、無意識に否認されている可能性がある。無意識的な葛藤タイプとして捉えることができる」となるだろう。確かに、ここには、自分の子ども、妻、夫、夫婦、家庭(という固い絆)、地域、国、世界が自ずから一つに「つながる」世界(常にすでに一つにつながっている世界)の不可能性に直面することへの無意識的な否認が存在するのかもしれない。
それは、あの排除のメカニズムである。我々にとってごく自然な日常的世界は、<我々自身の無意識>を穿つ亀裂がこのメカニズムによって<予防>されることで成立するのだ。

Copyright.(C),Nagasawa Mamoru(永澤 護),All Right Reserved.


© Rakuten Group, Inc.